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教育・生涯学習・スポーツ

燕市長善館史料館 長善館について

一八三三年(天保四年)、鈴木文臺によって粟生津村に創設された私塾である。惕軒、柿園、彦嶽の三館主四人の先生が、一九一二年(明治四十五年)の閉鎖に至るまで約八十年間、子弟を教育してきた。塾生は千人を超えると推定されている。

文臺は良寛とも親交があり、中国の古典を中心に教え、柿園・彦嶽の頃になると数字・英語も加えてきた。 一八八九年(明治二十二年)、県内百六十余りの私塾の中で「北越の文化を振興したもの」として、明治政府から賞された。

長善館は、本家の八畳二室を移築したことから始まる。何回か改修を行い、明治十四年、南北十三間、東西四・五間の木造二階建にした。昭和四十三年、町が鈴木家から土地・建物を譲り受け、現在では老人いこいの家、児童遊園地となっている。

長善館四人の先生

文臺先生

●1796年(寛政8年)~1870年(明治3年) 75歳卒
●1833年(天保4年)~1870年(明治3年) 館主38年間

通称は陳蔵。医師、鈴木見義の第二子として生まれる。三十八歳で長善館を開き、主として中国の経典を教え、聖賢の道を明らかにし、実行に努めた。昭和三年、従五位を追贈される。

惕軒先生

●1836年(天保7年)~1896年(明治29年) 61歳卒
●1870年(明治3年)~1891年(明治24年) 館主21年間

通称は健蔵。三島郡片貝村の医師、小川玄沢の三男として生まれる。十五歳で長善館に入り、二十三歳の時文臺の婿養子となり、三十五歳で二代目館主となる。四十六歳の時、本館を新築する。

柿園先生

●1861年(文久元年)~1887年(明治20年) 27歳卒
●1885年(明治18年)~1887年(明治20年) 教師3年間

通称は鹿之介。惕軒の長男として生まれる。幼にして長善館に学び、十七歳で上京。二十五歳の時、長善館塾則を作り、父を助けて塾生の指導に当たるが、二十七歳で病死する。

彦嶽先生

●1868年(慶応4年)~1919年(大正8年) 52歳卒
●1891年(明治24年)~1912年(明治45年) 館主21年間

通称は時之介。惕軒の次男として生まれる。十七歳のときに上京。東京専門学校を卒業する。二十四歳で三代目館主となる。明治四十五年に長善館を閉館し、粟生津郵便局を開き、初代局長となる。

長善館址碑

長善館址碑

昭和三十三年、鈴木虎雄氏が文化功労者に選ばれた時に話が出て、昭和三十五年八月、寄付者総数一〇二四人によって建てられた。燕市文化財のひとつである。(碑…高さ十尺、幅七尺、厚さ二尺、重さ七トン)

天上大風の碑

天上大風の碑文臺の門人、燕の東樹氏が良寛の「天上大風=子供の凧に書いてやったもの」を手に入れた。文臺が由来を書いて、嘉永六年(一八五三年)に一幅の軸とした。吉田町良寛会が、昭和五十八年に碑を建てた。

米納津隕石

天保八年(一八三七年)七月十四日午後四時ころ、弥彦山と国上山の間からゴオーという音を響かせながら、富永の田んぼへ落下。これが世にいう米納津隕石です。
重量は三十一・六五キログラムで、全国で三番目。石質隕石では全国二番目です。実物は東京の国立科学博物館に陳列されていて、落下跡地と長善館史料館に模型があります。

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教育委員会社会教育課(燕市総合文化センター内)

電話番号:0256-63-7002

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