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斉子玉斉

斉子玉斉

斉子玉斉

彫金 花瓶(カンナ) 斉子邦平

斉子玉斉 解説

明治41年(1908)1月3日、燕町上町の堤防上り口で、小池、横田の農家相手に、ミノ、カサ、バンドリ等を商う荒物屋、斉子熊太郎とハナの長男として生まれる。
本名、邦平。号、玉斉。
玉斎の美意識を、書画骨董に造詣の深かった祖父源太郎の影響、とみるのが、関係者の間では通説になっているが、生前の源太郎を邦平はしらない。
大正11年(1922)邦平は彫金師を志し、繪心のある子弟を探していた四代玉川覚平のもとに、今日風で言えば、学校推薦のかたちで入門する。婿養子の父熊太郎は、長男に家業を継がせたいとして、邦平を彫金師にすることに反対したが、母の説得で実現したといわれる。
入門直後から頭角をあらわした邦平は、大正15年(1926)玉川堂で伏見宮献上の花瓶を製作するにあたって、象嵌から片切彫の一切をまかされる。入門5年目のことである。

昭和3年(1928)11月入隊、同年12月除隊。年明けとともに独立開業するが、仕事の大半は、玉川堂の下請であった。
昭和7年(1932)深海千代見と結婚。
昭和12年(1937)召集令状をうけるや、年季明け直前の愛弟子、西片已則を玉川堂に托し、出征、中国各地を転戦。司令部付となって、時間的なゆとりができると、手のひらほどの「軍事はがき」をスケッチブックがわりに、写生をして、仕事への研鑽にはげむ。

昭和15(1940)帰還。
昭和21年冬、両親と別れ妻の母の生家である開花堂、長谷川徳三郎宅に4年ほど、間借りをしたのち、妻の生家である深海石材店の裏通りに面した作業場の一角を借りうけ、仮住居を建て、長男を一人生家に残して引越す。工芸家として羽ばたく日を胸に秘めた玉斉にとって、そこはあくまでも仮の住居で、終生のアトリエになるとは、考えもしなかった。

戦後10年の間に県下工芸界では、燕に斉子玉斉ありと、一応注目されるほどまでにはなったが、目ざす日展に出品しても、落選がつづき、7人の子育ての時期とも重なって、しばしば、妻の実家から、米・味噌の援助をうける。当時、派閥争いで腐敗しきった日展に、強力なコネを中央にもたない地方在住の、特に工芸家の入選は、余程の実力がないかぎり、至難とされた。たまたま落選作を上野へひきとりに行った昭和29年の秋、係員が玉斉の作品をみて、「この作品は惜しいところでおとされた」と、きわどい審査の内情を教えたという。コネがあれば当選した、という係員の一言が骨身に泌み、小川英鳳の紹介で、芸大の三井安蘇夫教授の門を叩いたのは昭和30年(1955)の日展出品作のときで、そのことが強力なコネになったかどうかは別として、燕市初の日展入選をかちとる。別居していても、誰よりも邦平の日展入選の日を待ちのぞんでいた母ハナは、その年の6月27日、息子の吉報を知らずに他界した。
出品作をもって上京するのに、着てゆく服がなく、宮町で洋品店をいとなむ友人、山田清一に事情をはなし、商売物のジャンバーを借着して、夜行に乗りこんだ、というエピソードも、この初入選のときのことだ。
しかし、初入選のあと、再び落選がつづき、技法のゆきづまりに苦しむ。もともと象嵌、片切彫のタガネの技一筋に生命を燃焼してきた玉斉芸術は、掬すべき見事なタガネの冴えをみせても、会場芸術としては人眼につかず、地味な仕事であった。
昭和35年(1960)この年の出品作は、従来の抽象的図柄の象嵌から、一変して、けんらんとした肉彫りにかわる。昭和36年(1961)も同じ手法で、連続入選をはたし、玉斉の彫金技術は、漸く遅咲きながら開花したかにみえたが、翌年の37年(1962)は、製作なかばで、搬入の時間切れとなり、このとしの出品をあきらめた玉斉は、その秋、日展見学のため、上京するが、帰途、上野駅で発病。半身不随となって、上町の生家を守る長男堅一郎にひきとられるが、療養のかえもなく、昭和62年(1987)10月10日まで、この25年間、ついにタガネを握ることなく、無念の涙をのんで、永眠する。 (相沢直人/燕産業史料保存会)

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