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鶴寿堂 関口虎吉

鶴寿堂 関口虎吉

鶴寿堂 関口虎吉

瓶懸 関口虎吉

鶴寿堂 関口虎吉 解説

元治元年(1864年)9月2日、関口甚五郎の二男として、今町に生まれる。母は玉川堂から後妻に嫁いだひとで、二代覚次郎の姉弟という。したがって、三代覚平とは従弟の関係になる。

はたして二代覚次郎の姉であったか、妹であったか、その名前すら今は調査不十分で正確を期す資料をもちあわせていないが、母の死後、残された3人の子供は、何故か、関口家に育てられることなく、それぞれ他家へやられたという。虎吉は3人の1番頭で、母の生家にひきとられるかたちで弟子入りをする。呼び年で12歳だったと。後年虎吉が述懐したと、いうから満11歳のときである。三代覚平の甥、玉川正作氏の玉川堂「門人名簿」に、文久元年生。吉田。とあるのは、元治元年生。今町。の誤りであろう。

入門は明治7年(1874年)である。仮に文久元年生まれとすれば、呼び年で15歳になっている。15歳の入門は、この時代としては考えられないことだが、元治元年生まれとすれば、呼び年で12歳となり、本人の述懐と一致する。

入門したとき同名の虎吉がいたため、関口虎吉は三吉と呼ばれたという。これも後年本人の述懐したことで、他人の子弟の名を変えることはできないから、身内の子供の呼び名を変えたものだときく。しかし、たとえ身内の子弟でも、弟子は弟子で、きびしい修行の中で、虎吉は鍛金師としての素地を磨き、「明治17年(1884年)10年の年期を卒えた関口虎吉氏を5年間京都其の他に派遣研究させ、22年から10年間工場長としたが、・・・・(略)32年独立後、親戚として交際」(玉川正作氏「玉川堂と燕銅器の話」より)したといわしめるだけの信頼と、技を身につける。

明治37年米国セントルイス博。同43年倫敦日英博の他、内地各博覧会に出品受賞。と、仕事への評価は記録にものこされているが、腰黒といわれた京都風の水注しを燕で最初に手がけたことでも、鍛金師鶴寿堂雲遊、関口虎吉の名は記憶されてよい。大正15年(1926年)7月11日没。 (相沢直人/燕産業史料保存会)

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