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山川堂 山崎亀太郎

山川堂 山崎亀太郎

山川堂 山崎亀太郎

銅湯沸(亀甲文) 山崎 薫

山川堂 山崎亀太郎 解説

明治7年(1874年)6月10日、山崎熊太郎・キシの長男として生まれる。玉川堂2代覚次郎門人、本本堂 本多寅八に弟子入りをしたが、入門の年代は不明。玉川堂の門人名簿によれば - 玉川正作著 - 「明治31年(1898年)年季明けと同時に山川堂と称し開業」したとある。

山川堂現当主 薫氏はそのへんの事情を、

「家庭の事情で、特別に年季明けを早めてもらい、独立した」
と説明する。通常の年季明けは兵隊検査までで、そのあと礼奉公1年が、当時のきまりである。亀太郎の年季明けは満24才、数えで25才となるから、特別に年季明けを早めてもらった、とするには、少し年をとりすぎている。推測できることは、兵隊検査をすぎてから、弟子入りしたのではないか、ということだ。それも、3年か、せいぜい4年位の短い修行であったと思われる。家庭の事情ということは、一家の生活が成人したばかりの亀太郎の細腕一本にかかっていたためではないか。

銅器職人としての腕もたしかだったろうが、企業家としての才もあり、独立して間もなく、親方の本本堂をしのぐほどの量産態勢をつくり、

「師寅八氏に似て安価品を大量に造ることは当時氏の右に出る人がなかった。多勢の弟子に恵まれた他、徒弟も多く大手の一人であった」
 - 玉川正作著 - 「玉川堂と燕銅器の話」と、後年書きのこされる。水注、湯沸しの口、蓋の段、水注の高台などに、いちはやく金型をもちいたのは、亀太郎の考案で、省力化のはしりである。

銅使用禁止令の出た翌年、銀行から借入れをして、ヤスリ製造に転業。組ヤスリ10台、両刃吋ヤスリ2台の設備は、戦争の長期化をみこんでの、思いきったもので、使用人も17、18年代は20人をこえたといわれる。このへんにも、企業家の才がうかがえる。

戦後、いちはやく、ヤスリ職人で住みこんでいた若い工員を助手に使って、厚縁の瓶懸を手がけたが、戦争中に空白で腕がおち、思いのままに仕上げることができず、口惜し泣きをしたという。
そこに、職人の根性をみた。亀太郎75才の夏のことである。本業にもどるきっかけにもなっている。その翌々年、昭和25年(1950年)3月15日死亡

山崎喜一は明治35年(1902年)2月10日、亀太郎の長男として生まれ、父に師事して家業を受け継ぐ。昭和57年1月1日没。主な製品に宣徳色の水注、湯沸がある。(相沢直人/燕産業史料保存会)

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