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清玉堂 相場清太郎

清玉堂 相場清太郎

清玉堂 相場清太郎

水注 清玉堂

清玉堂 相場清太郎 解説

元治元年、1864年2月10日、旧太田村寺郷屋の相場蔵吉、トヨ夫妻の長男として生まれたが、1875年(明治8年)玉川堂に弟子入りをする。本人の意に依ると伝えられる。ときに12才であった。玉川正作著「玉川堂と燕銅器の話」別冊「門人名簿」によれば、「精励格勤、誠実で他の模範とされた。依って開業に際し、玉の字を贈られ清玉堂と称した。以後これに倣い玉の字をつけて、何々堂と称するを例とした。」とある。年季明けは1885年(明治18年)1年の礼奉公の後、実家の農業は弟の豊平に譲り、1886年(明治19年)現在地で独立開業する。23才であった。最盛期には10数名の弟子を抱えていたといわれ、斉藤又五郎他多くのすぐれた子弟が巣立っている。鍛金師として清太郎は、その造形のたしかさで、玉川堂門人中でも一際ぬきんじていた。それは、天性のものであったようで、今回の展示品の中で、ポスターに使用した水差しは、控え目のなかに重量感をたたえ、しかも造り手の人柄さえ滲ませて、微妙な色の仕上がりとともに、見事である。1936年(昭和11年)10月6日没。

相場金一郎の略歴
1878年(明治11年)12月16日、相場蔵吉、トヨの五男として生まれ、1897年(明治30年)20才の年、長兄清太郎の養子となる。1902年(明治35年)フミと結婚。清玉堂二代を継ぐ。

相場一清の略歴
1908年(明治41年)2月27日、相場金一郎長男として生まれる。
1922年(大正11年)14才のときから鍛金師としての修行を、祖父と父のきびしい薫陶のもとで積む。金一郎は清玉堂三代を、すじのよい息子に継がせることを、職人の夢として大切にしたが、叔父豊平の感化をうけ、日本無産青年同盟に参加(1926年-1928年)した一清は、問屋制度の支配下にある銅器鍛治の生涯に見切りをつけ、洋食器の製造工場への転業を決意する。父の反対にあい、部屋にこもり断食をもって抗したため、金一郎は根負けして、家業を二代かぎりとあきらめる。
1943年(昭和18年)相場工業株式会社を設立。1955年(昭和30年)県会議員に当選。工業人から政界入りをした一清は、自民党新潟県支部幹事長、新潟県議会議長の要職を経て、1972年(昭和47年7月3日)永眠。

[清文堂]
平田文作 明治16年2月17日 新町で出生
昭和42年6月21日 新町で死亡

[又五郎]
斉藤又五郎 本名 正次
明治26年2月10日北海道浦河村で出生
明治30年3月2日斉藤又五郎の養子となる
大正11年7月13日又五郎を襲名する
昭和37年8月30日地蔵堂で死亡

[清分堂]
相場正治
明治29年3月26日寺郷屋で出生
昭和41年10月3日死亡

[正寿]
中松勇松
明治30年11月25日地蔵堂で出生
昭和41年10月11日見附市で死亡

[天晴堂]
深海勇吉
明治41年9月15日燕市大野(中央5~3)で出生
昭和48年11月15日南町で死亡

- 解説 -
清玉堂から独立した数多い門弟のうち、平田文作、斉藤又五郎、相場正治、中沢勇松、深海勇吉の仕事を展示したが、「清玉堂とその周辺展」とうたうためには、いささか調査不充分の指摘を受けるかもしれないが、門弟のほとんどが故人のため、収集に困難をきわめた事情もある。いずれにしても、門弟人名簿なども皆無のため、平田文作、斉藤又五郎をふくめ、独立後の消息について、ここに書き記す資料がない。 (相沢直人/燕産業史料保存会)

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