燕市産業史料館website

燕の産業が見れる・分かる・燕市の産業の歴史を学べる史料館のご紹介です

ウェブサイトお引越し予定のお知らせ 燕市産業史料館公式ウェブサイトは http://tsubame-shiryoukan.jp/ に引っ越しを予定しています(現在仮運用中)。ブックマークに登録されている方は新しいサイトをぜひご登録ください。およそ20秒後に新サイトに移動します。

松岳堂 遠藤松次郎

松岳堂 遠藤松次郎

松岳堂 遠藤松次郎

銅水注 松華堂

松岳堂 遠藤松次郎 解説

燕の鎚起銅器を、玉川堂の鎚起銅器として、公に定義づけたのは、宮栄二(新潟県文化財保護委員)であったと思われる。そして、それが通説にもなっている。しかし、私見によれば、玉川堂の歴史が、そのまま燕の鎚起銅器の歴史に、重ならない。というよりも、玉川堂の歴史だけでは埋まらない部分がある。それは、長谷川継松の存在である。

玉川正作の「玉川堂と燕銅器の話」 - 昭和51年刊 - によると「名工と称された長谷川継松氏(天保8年生まれ、明治36年死亡)等は父祖の代から継続していたのかも知れない。」とあるだけで、それ以上の手がかりはない。にも拘らず、そこではっきりしていることは、玉川堂とまったく関係がなかったということだ。それは、仙台藤七から、源六、由兵衛等を経て、玉川覚兵衛に伝わり、伝統工芸として今日にいたったその技と、全く無関係だったということでもある。それでは、長谷川継松は、どこで鎚起の技術を習得したのか、という疑問が生じるが、現在公にされている鎚起銅器に関する資料の中では、いまだに、つまびらかにされていない。玉川堂の歴史が、そのまま燕の鎚起銅器の歴史として、重ならない、つまり、玉川堂の歴史だけで埋まらない部分である。

玉川堂初代覚兵衛と、松華堂長谷川継松の年令差は31才ほどで、継松が若く、二代玉川覚次郎とほぼ同世代になる。考えられることは、仙台藤七の直伝とは別に、日常生活に必要な鍋、カン鍋から、十能などの小物まで、野鍛冶がけっこうこなしており、特に燕、分水地域は銅細工がさかんで、中でも長谷川継松が、職人としてぬきんじた打出技術を身につけていたということだ。或はまた、通説では仙台藤七から、源六、由兵衛を経て覚兵衛に伝わったとされているが、長谷川継松もまた、そのうちの一人ではなかったか、という推測も、できなくはない。つまり、直伝の生きのこりの職人は、玉川覚兵衛一人ではなかった、という説である。

いずれにしても長谷川継松については、今後の研究をまたねばならないが、遠藤俊吉(1853-1915) が長谷川継松に入門したのは、慶応2年、1866年で明治4年、1871年独立開業、松岳堂を名乗り、もっぱら、カン鍋、ツバ薬缶、バケツ、金タライといった、台所の用具を生業としてつくったことは、玉川堂初代覚兵衛の時代と似ている。工芸的なものに移行し、鍛金師の本領を発揮するのは、松岳堂二代松次郎になってからである。松次郎(1880-1948)は長谷川継松の長男として生まれたが、上の七人がいずれも女で、八番目の子であったことことから、生まれおちるとすぐに遠藤俊吉の養子となった。兄妹同様にして育てられたトヨと結婚したが、長男が生まれた翌年、1903年、養家を飛びだしたかたちで上京、加賀藩のお抱えの名工平田重光に弟子入りをする。すでに養父のもとで技を身につけた松次郎は、ここでの4年近い修行で、もっぱら銀器の打出に習熟し、帰郷、爾来、独自の技を研鑽し、多くの子弟を育てた。分水町で銀器の製作に打ちこむ松栄堂、市内寿町の春光堂等、松岳堂の技をうけつぐ職人は、現在数人にとどまる。

大正の末、いちはやく手動プレス機の導入をはかり、茶托の量産を手がけるとともに、洋食器の生産に取り組み、鍛金師の世界から、工業人として飛躍的な脱皮をつづけるなかで、戦争を迎えるが、間もなく没す。遠藤工業株式会社の創立者として、大きな飛躍をこの地域にのこしながら、その生涯は、終生鍛金師であり、職人であることを誇りにした人であった、と云えよう。  (相沢直人/燕産業史料保存会)

Copyright © Tsubame Industrial Materials Museum. All Rights Reserved.