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修玉堂 山崎鉄平

修玉堂 山崎鉄平

修玉堂 山崎鉄平

水注(波文) 山崎鉄平

修玉堂 山崎鉄平 解説

通称『しまや』と呼ばれた山崎鉄平は、明治20年12月16日燕町横町に生まれ、昭和27年10月15日没、戸籍では地先死とある。死の前夜、玉川堂同門の後輩 捧謙二郎宅で酒を馳走になったあと、消息をたち、翌朝中之口川水辺で顔を水に浸したまま死体となって発見された。死因については手許に資料もなく不明だが、病死であれ事故死であれ不慮の死にかわりはない。名人とも言われ、奇人とも言われ、仕事一筋に生きながら、しかも多くの名品を遺したにも拘わず、むくわれることの少ない生涯を閉じた。終生、酒を愛したとも言われ、或いは酒で身をもちくずしたとも言われたが、そのいずれも彼の真実を言いあてている。働き手である二人の息子を戦争で失ったことも大きな傷手だが、気のふれた娘を柱に縛りつけた傍で、ただ黙々と鎚をふりあげなければ、米を買う銭も取れない日常は、生きながら狂気の世界に通じ、酒をあびなければ夜を過ごせなかったに違いない。

それにしても、一部の愛好家を別にすれば、山崎鉄平の生前の仕事は概して高い評価を受けていない。むしろ不当に低い評価を受けてきたとさえ言える。その評価は死後30年余を経過した現在でも、さして変っていない。「燕の鍛金師」シリーズは、一つには燕の鎚起銅器の歴史の見直しと、もう一つには今回の「修玉堂」山崎鉄平の仕事ぶりの再評価という意味が企画の根底にあった。たとえば玉川正作氏の労作「門人名簿と孫弟子の一部、業務に携った家族」の中の修玉堂の紹介文をみると、つぎのようになっている。

修玉堂 山崎鉄平の略歴
明治20年  燕市中央通(横町)に出生
明治32年  玉川堂へ入門
明治41年  年季明け独立開業
大正末年  廃業 玉川堂へ勤務
昭和30年  没す

修玉堂と称し開業、一時上京して田子一眠の門を叩いたこともあり、技術優秀、弟松治の他門人を使用して、一般品でも比較的上等品を作り、花瓶の他打ち上げ茶筒等高級品を作ったが、根っからの職人でうまくいかず大正末年で廃業して玉川堂に勤務した。この時点では粗製乱造の癖と酒のためか腕が鈍っていたが徐々に立直り口打出しを覚え、手間どったが性格の表れか出来が良いと云うよりは、トボけた面白味のある品を作ったので、四代目が損徳を度外視して自由につくらせた。もともと素地が出来ていたから益々雅味ある品が出来た。技術的に見ると欠点はあるが、不思議と面白味があり人々に愛頑されている。正直で酒と仕事を愛した昔の講談に出で来る職人を眼のあたり見る様な一生である。

大正末年廃業、玉川堂勤務とあるだけで退職のことにふれていないので、昭和27年(昭和30年没は誤り)の没年まで勤務したかのようにうけとられるおそれがあるが勤務は何年とも続いていない筈だ。鉄平の腕を高く買っていた1人である捧吉右エ門商店の捧栄松が宝暦堂の銘で打たせている。この時期は短く、満州事変の前後から昭和8年捧栄松が亡くなるまで続いたと思われる。又、この頃のものは同じ玉川堂門弟の彫金師勝山、横山順一郎と組んだ仕事が多いときいている。漆で仕上げたことも一つの特徴になっている。一見、陶器の肌を思わせるこの年代の小さな壷の幾つかは、厚打ちの技術と見事な造形で、山崎鉄平のなみなみならぬ才能をうかがわせてくれる。しかも野暮ったさに徹したところがいい。そこが研きだしの宣徳色で代表される戦前の玉川堂系統の仕事と対照的であるばかりでなく、挑戦的であったとみられるところに、山崎鉄平の人生が匂い立っている。 (相沢直人/燕産業史料保存会)

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