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春光堂 佐野熊五郎

春光堂 佐野熊五郎

春光堂 佐野熊五郎

銅湯沸 佐野熊五郎

春光堂 佐野熊五郎 解説

明治32年(1899)10月1日、佐野熊一・カツの長男として、広正彫金師の旧跡地の隣家に生まれる。明治45年(1912)13才で松岳堂に入門したが、16才の年まで、酸洗いや研ぎ物などの下仕事で明け暮れ、鎚を打たせてもらえないうちに、大正4年、この町に新しく導入された洋食器の手造り作業へまわされて、年季明けを迎えることになる。銅器職人になりたくて入門したのだからと、親方に訴え、夜なべ仕事で、特別に師匠の遠藤松次郎から手ほどきをうける。

このたびの3人展で展示されている、手のひらにのる小さな香炉は、年季の終るときにつくったもので、師匠にはじめて賞めてもらったという。

「年季があけて独り立ちもする餞のようなもんでしょうが、それは嬉しかったねえ。なにしろ、それまで親方に賞められたことはなかったから、これで一人前の銅器職人になれるってことが嬉しかったんですよ」
 - 吉羽和夫著<最後の職人、燕の職人衆>より - 
と、後年、熊五郎に述懐させている。

大正8年(1919)春光堂を名乗り、独立開業したものの、職人の技がともなわず、鎚をもつ期間の短かったことが、長い間、熊五郎の負い目になった。小中川村関崎の出身で、かなりの田地畑を貰って分家した父熊一は、放蕩三昧で借金までつくり、おりからの不況のなかで、熊五郎一人の働きでは、支えきれなかった。支那事変直前の昭和11年(1936)借財を残したまま、熊五郎は単身、知人をたよって上京。日本光学の下請をしていた町工場におちつくと、家族はそのあとを追うかたちで旅立ちをする。
町工場主は燕出身の渡辺大四郎といった。そこで板金仕事をしたが、潜望鏡や双眼鏡のハコモノづくりで、ヤスリがけ、ろう付けなど、銅器職人の技が役立ったばかりでなく、規格による手作り仕事をこなしたことが、後年のものづくりに役立つ。

東京での生活がおちつくと、律儀な熊五郎は夜逃げ同様にのこしてきた、借財を返済するために、一度燕に帰っている。東京での仕事は、昭和20年3月の東京空襲で、焼け出されるまでつづいた。

銅器職人にもどるのは、昭和21年の10月で、問屋から材料を支給され、フカシナベをつくった。たのまれ仕事はなんでも引きうけた。東京での9年間の町工場づとめで応用がきいた。それがまた、春光堂の売りものになった。

昭和59年、85才のときの「手仕事展」出品作は、気力にあふれた見事な銅瓶で、無欲枯淡、最晩年の佳品として、史料館で保存されている。同じ年の11月3日、勲6等瑞宝章をうける。
昭和60年(1985)9月25日0時1分、86才で息をひきとるまで、現役の職人であったことは、特筆にあたいする。(相沢直人/燕産業史料保存会)

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