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早川義信

早川義信

早川義信

彫金 額(仙人と鶴) 早川義信

早川義信 解説

本名を早川哲治郎と言い、「初代、義信」(早川友平)の長男として明治15年6月(1882年)現在の燕市中央通2丁目に生まれた。屋号を月清館と言う。当時は(館さ)の名称で親しまれ金属彫刻を生業としていた。
明治31年、父「義信」に従って彫金を始める。
哲治郎の活躍は目ざましく、明治37年日本金工協会へ銅製の茶盆に夏の夜図を彫刻出品し賞を受ける。明治39年(彼24才)京都新古美術展覧会へ銅製の花瓶に晩秋の図を彫刻、出品し賞を受ける。翌明治40年全国五二品評会へ銅製の水差に猛虎を彫刻、出品し賞を受ける。その年11月父の死(享年54才)に接し、「義信」の彫号を継ぐが、他に師事する者もなく、哲治郎は人生の岐路にたたされる。

明治43年(彼28才)意を決して上京。
彫金の名工でもあり、上野美術学校(東京芸大)教授、帝室技芸員(正六位)海野勝珉先生の門下生となり、彫金の技術を学び、画道は伊藤伯陽に学ぶ。
これより、恩師勝珉(彫号 芳洲)の一字を賜り彫名を「美洲義信」とした。
後、同じく帝室技芸員(正八位)香川勝広に師事され彫金の片切りの刀法を学び、中央に於ける作家活動に入る。(片切彫とは、毛彫・蹴彫と共に線彫りと言われ刃先が木工の鑿のような形の鏨で、先を片側に倒して彫っていくため片側が深く、反対側が浅くなるのに特徴がある。)
同年、日本美術協会へ(東京上野 鈴木茂八氏の出品)銀製の巻良凾に秋日の図を彫刻に対し日本美術会賞を受けるや日本美術協会員に推薦され間もなく新潟県工芸協会会員となる。更に同年、長野県総合共進会より(燕 鎚起 相場清太郎氏の出品)銅製の香炉に鵲鷺を彫刻し賞を受ける。

大正年代に入って、一時故郷(月清館)に帰るが、大正5年、再び上京する。同8年、義信は日本弁護士協会の依頼により米国弁護士協会に贈る日本の工芸美術の真価を宣伝すべき代表作品として銀の大盃に(径一尺五寸)松竹梅の模様彫金を施しその任を果たす。その後の米国に於ける米国博覧会には、先生の功績が認められ日本代表として彫金衝立(16羅漢)を出品するや見事に受賞し「早川義信」の名を不動のものにとした。
大正12年(義信42才)9月東京大震災に逢い、家族と伴に難を避け故郷(月清館)に帰る。大正13年(義信44才)燕市仲町地内、旧警察小路白木屋に居を移す。
この頃、或る屋根師が屋根の修理をしながら、義信の仕事場を覗くとその豪快なる片切りに目を丸くしたという。「一寸タガネ」という異名を持ち、その繊細な刀法を駆使した作品は多くの人々を魅了したのである。事実、当時の燕にゆかりの弟子には清水芳春を筆頭にして小沢正光、繁治・成田義寿・広田広山など多くが連なり現在の燕彫金界の一隅を照らす基をなしている。

昭和を迎えて2年8月燕町工芸会を創立し理事となる。
翌3年秋、昭和天皇ご即位の折に金銀拵え(こしらえ)付彫刻宝刀(短刀の刀身に岩上の亀雌雄肉彫)を献上嘉納して、宮内庁より御紋章入青端渓の硯を御下賜拝授する。続いて、当時の日本美術協会会長でもあった久邇宮家へも献上し御紋章入り赤端渓の硯を拝授する。
昭和5年(1930年)義信48才に帝室技芸員推薦の話が持ち上がり、新潟県人会の主催で、上野池之端の料亭に於いて「早川義信」後援会の発会式が行われる直前、病に倒れその実現を見ずに終わる。そのときの新潟県文化協会賛助御芳名録(新潟県人会作成)には、実業之日本社社長増田義一・農商務大臣、荒井賢太郎などの署名がみえる。

昭和18年(1943年)1月18日、義信は享年61才で去る。時あたかも、大戦の泥沼化により敗戦の影が忍び寄る戦時下であった。
義信が活躍した大正期~昭和4年の作品は数少ない、その殆どが中央のみにあって東京大震災や先の大戦を経たことが理由の一つとして挙げられよう。
義信の作品を所蔵しておられる方々の多大なご好意により、ここに燕を代表する彫金家「早川義信」のその偉業をしのび、皆様とともにその作風に触れる機会を得たことを最上の歓びとしたい。

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