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友来堂 捧謙二郎

友来堂 捧謙二郎

友来堂 捧謙二郎

銅水注(かめだれ文) 捧謙二郎

友来堂 捧謙二郎 解説

明治31年(1898年)4月16日、燕町穀町(現住所)の角店で、なんかやの店をもつ捧佐七・カズ夫妻の二男として生まれる。

明治44年(1911年)玉川堂入門。大正7年(1918年)年季明け早々、独立開業。捧玉堂と称した。数えで21才のときである。

初期の仕事で、屋号の「佐七」銘を打ったものがある。捧玉堂を名乗る以前のものか年代的には不明である。
その後、大正10年代かと思われるが、長岡に住む鍛金師、川上英山のもとに弟子入りして、口打出しの技を身につける。

子息の米作氏の談によれば、英山のもとに弟子入りするとき、自分の仕事場の道具を、そっくり仕事場に運んだが、英山のもとを去るとき、道具をそのまま、英山の仕事場に残してきたため、燕で再び開業するとき、新しく道具を一式揃えるのに苦労をしたという。何故、自分の道具を引きとりに行かなかったか、そのへんの事情を、米作氏は口の重い父親から聞いていない。職人が、手慣れた自分の道具をのこして帰ってきた、ということをふくめ、よくよくの事情があってのことだろう。だからといって、英山に不義理があったということではなかったようだ。というのは、その英山は弥彦詣りの帰途、よく立ち寄って、一泊してゆかれた、という。

玉川正作氏の労作、玉川堂の「門人名簿」に記された捧謙二郎の略歴をみると、「大正10年頃廃業して玉川堂に勤務したが玉川堂でも不況で仕事が不足し、時たま休んで魚釣りに行った位なので止むなくやめたが、昭和3年門人小菅幸一を帯同して再就職する。」とある。
「大正10年廃業して玉川堂に勤務」とあるこの年の7月、謙二郎は吉田町法花堂の幸田タケと結婚している。結婚して間もなく廃業ということも、廃業した直後の結婚、ということも考えられないから、「廃業して玉川堂に勤務」した、或いは、することをけいきに、結婚したと考えるのが自然である。しかし、その玉川堂も仕事不足のため、止むなくやめた、とあるところから推測すれば、不況の中では独立開業はおろか、就職さえも安定しない、と、骨身にこたえ、玉川堂にない新しい技を身につければ、という思いがつのり、英山のもとへ、謙二郎を走らせた、と思われる。この時代の年表をくると「大正8年-東京諸新聞社印刷工罷業。米価騰貴甚しく米穀輸入制改令。足尾鉱山スト暴動化。大正9年-東京市電スト。第9次紡績操短実施。大正10年-安田善次郎刺殺。原敬暗殺。諸株、期米、綿糸相場暴落。」とつづく。

謙二郎が英山のもとで修行をした期間は、長くて1年、ひょっとしたら半年位でなかったか、と、米作氏の談話から推論するのだが、昭和3年玉川堂再就職は、明らかに、口打出しの技術とかかわりをもったもの、とみてよいだろう。英山のもとで一度みただけの銀銅二重打出しの研究・試作も、玉川堂でなら容易にできる、といったことも、ふくまれていたと思われる。
玉川堂の鎚起銅器が県無形文化財の指定をうけるとき、その調査にあたった、当時県文化財保護委員の宮栄二氏は、玉川堂の記録づくりの中で、「口作り」の項を、つぎのように記す。
「湯沸、水注の注口や執手の耳は別に作って取り付けるのが普通であるが、昭和の初まり特に上等品はこれも同一銅塊より鎚起によって作り出すことを研究・完成した。」と。捧謙二郎の再就職の時期と口打出しの技を玉川堂からとり入れた時期が、ここで一致する。
県無形文化財としての鎚起技術は、必ずしも口打出しの技が、条件ではない。しかし一般的には口打出しの技が、宮氏も記しているように、鎚起技術の中でも、「特に上等品」と印象づけることはいなめない。しかし、宮氏は、口打出しの技が導入されたことにはふれず、玉川堂の「研究・完成した。」とのみ記すに止どまっている。

これが玉川正作氏の筆になると「四代覚平はこれ等の研究には犠牲を厭わず自由に研究せしめた。捧謙二郎氏は波肌や大鎚肌や口打出し等新技法を開発した研究熱心の人であるが、先般会った時、良い主人を持って思いのままに仕事が出来てしあわせであったと述懐していられた。同氏が口打出しや銀銅二重打湯沸を作ったのもこの頃であるが完成する迄には皆数ヶ月の研究試作を要した。」となる。
ここでも、長岡の鍛金師英山のもとに弟子入りをして会得したことには、一言半句もふれていない。
おそらく家族の生活を犠牲にしてまで修行し、会得した口打出しの技術を、四代覚平の深い理解のもとで研究・完成したかの如く、問題の本質をすりかえている、とみられなくもない。
「鶴寿堂」「友来堂」二人展を機に、口打出しの技を燕の鎚起銅器にとり入れた原点をさぐり、捧謙二郎の職人としての功を、明確に位置づけることができればと思う。

二本の敗戦の直後まで玉川堂に勤務した捧謙二郎の戦後は、捧玉堂を友来堂と改名し、職人としての生涯を全うした。昭和53年(1978年)1月3日没。 (相沢直人/燕産業史料保存会)

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