沿革

更新日:2021年03月01日

2006年3月20日、燕市、吉田町、分水町が合併して「燕市」が誕生しました。

合併までの流れ

合併までの流れの一覧
2004年 3月8日 燕・吉田・分水合併推進協議会(任意協議会)を立ち上げる
9月17日~ 10月9日 3市町住民への説明会を開催
10月26日 3市町で臨時議会を開催し、「燕・吉田・分水合併協議会」(法定協議会)の設置について可決
3市町の長が「法定協議会設置に関する協定書」に調印
11月1日 燕・吉田・分水合併協議会(法定協議会)の設置
11月22日 燕・吉田・分水合併協議会第2回会議において、合併の期日を2006年3月20日とし、新市の名称は「燕市」にすることを決定
2005年 2月4日~18日 3市町住民への説明会を開催
2月21日 合併協定調印式
2月28日 3市町で臨時議会を開催。燕市・吉田町・分水町を廃し、その区域をもって「燕市」を設置する配置分合(合併)議案などを可決
合併協議調印式
3月9日 新潟県知事に合併の申請
8月16日 総務大臣の告示により、3市町の合併が正式に決定
9月29日 「燕市」の市章デザインが決定
2006年 3月20日 燕市・吉田町・分水町合併。「燕市」誕生

旧燕市は、1954年3月31日、燕町、小池村、小中川村、松長村の1町3村の合併により発足し、同年7月7日、中之口村新設により旧松長村大字姥島、羽黒、真木の3集落が分離し、1955年3月20日三条市大字井土巻集落を合併しました。

旧吉田町は、1954年11月3日、吉田町、米納津村、粟生津村が合併して誕生しました。新町名を考えるとき、ともに食・農に関係が深い町村名であることから、「米」と「粟」を「吉」き田に作るという意味から、吉田町と決定しました。

旧分水町は、1954年11月3日、地蔵堂町、島上村、国上村の1町2村の合併により発足しました。その後、1957年7月5日大河津村より分離した大字五千石、野中才、大川津の3集落を合併、また、同年7月15日には大字溝、溝古新の2集落が吉田町へ分離、さらに同年11月1日には大字大川津のうち町軽井地区が寺泊町に分離、寺泊町大字新長のうち分水路東地区を編入しました。

燕の地名の由来

伝説

今から440年ほど昔、そのころ中ノ口川はもっと川幅が広く、5月、6月頃の雨季には、濁流が渦を巻いていました。この濁流にゆられながら上流から流れてくる小さな祠(ほこら)があり、どうしたわけかその祠が宮の浦(今の宮町)まできたときその場所からいくら流そうとしても流れませんでした。人々が不思議に思ったのはそればかりでなく、祠の屋根にもその附近にもたくさんの燕がその祠を守るようにむらがっていたのです。

祠は村びとによって拾いあげられこの地の守り神としてまつられました。そしてこの不思議な燕の群れから燕の村と呼ばれるようになったと伝えられています。

学説

およそ510年前に水原憲家という人(水原氏は鎌倉時代から白河荘の地頭をつとめてきた家柄)がその子の景家に出した手紙に、「おまえに津波目の土地を与える」ということが書かれています。このことから燕は昔、津波目と書いていたことがわかります。燕市には小古津新や関崎という津や関のつくところがあり、津や関は港という意味があります。また、目は中心という意味があり、このことから津波目は信濃川をとおる舟のつくところで、近くの村々から出る米が集まって、舟に積まれていたことが考えられます。津波目がいつごろどうして燕という字に変わったかはまだはっきりしていません。

吉田の地名の由来

伝説

その昔、応神天皇の皇子(みこ)蒲原吉田彦が住まわれたところから「よしだ」という地名が生まれ、平安時代の末期、源氏が東国に活躍した時代には、数戸の小集落をなしていたとの言い伝えがありますが、史実に基づいたものではありません。また、吉田地域一帯が、葦(よし)の原野であったところから、葦の原、葦の田、吉(葦)田となったという言い伝えもあります。

学説

吉田の地名は古く、今から約950年前の康平3年(西暦1060年)の「越後国地図」には、弥彦山の東麓に吉田の文字が載っています。また、足利時代の応永13年(西暦1406年)には、越後守護上杉常越(房方)が足利氏の菩提寺(山城国等持院)に吉田の保を寄進したという寄進状が残っています。

分水の地名の由来になった「大河津分水」

1954年11月3日、地蔵堂町、島上村、国上村の1町2村を合併して「分水町」が誕生しました。新町名については委員をあげて審議され、このとき出された町名には「美堂里町」「分水町」「上地町」「神地町」などが挙げられましたが、多くの人々の願いが叶い、延べ1千万人の人力と13年の歳月を要して建設された「越後平野の守り神・大河津分水」の偉業を讃え、また後世に語り継いでいくため「分水町」と決定しました。

日本一の大河・信濃川は、広大な越後平野を産み出し、豊かな実りをもたらした反面、度重なる洪水によって多くの尊い人命、家屋、田畑を流し去り、流域に壊滅的な被害を与えてきました。大河津分水路は、幾多の水害に悩まされ続けてきた沿川住民の永年の悲願・請願を受け、信濃川の放水路として明治時代から大正時代にかけて延べ1千万人の人力と13年の歳月を要して建設されたものです。その工事は当時「東洋のパナマ運河」とも言われた国の威信をかけた大事業でした。多大な困難と犠牲の末に1922年ようやく完成した大河津分水は、今日の高速交通網の整備や産業の発展をもたらし、越後平野を全国有数の穀倉地帯に変えました。そして現在も黙々と信濃川の洪水を日本海に流し続け、越後平野の守り神となっています。

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