大河津分水ができるまで

更新日:2021年10月27日

信濃川の洪水に苦しめられてきた歴史

まだ大河津分水がなかった時代、信濃川は3年に1度の頻度で決壊し洪水を起こす「暴れ川」でした。

当時の越後平野は潟や沼地が多く、水はけが悪い土地だったため、腰まで沈む田んぼの中、竹竿に乗り田植えをし、収穫した稲穂を船で運びました。そこへ、信濃川が氾濫します。せっかく耕した田畑は水に流され、収穫が望めない年もありました。洪水による不作は人々を困窮させました。水はけの悪い土地で洪水が起きれば、水が引くまでに数カ月かかります。伝染病が蔓延し、さらに人々を苦しめました。

このような土地では、子どもを身売りすることで解決するケースも珍しくなかったそうです。

信濃川の洪水から生まれた? 燕の金属加工産業

困窮から脱却するため、農家の副業として推奨されたのが「和釘」づくりでした。和釘は、燕における金属加工産業の起源とされています。

水はけの悪い土地での農作業に欠かせない舟や、水害で壊された家屋の修繕など、和釘にはかなりの需要があったと思われます。和釘は、急速に百万都市へと変貌していく江戸へも出荷されていました。

信濃川の氾濫による洪水で苦しめられ、農業だけでは生きていけない土地だったからこそ、燕は金属加工の一大産地になることができたとも言えるでしょう。

ついに大河津分水の建設がスタート!

大河津分水建設の請願は、寺泊(長岡市)の本間屋数右衛門が江戸幕府へ請願したものが始まりとさています。1730年ごろのことでした。以降、先人たちは、大河津分水の必要性を訴え続けますが、なかなか建設にはいたりません。そんな中、1868年に起こった新政府軍と幕府軍による北越戦争(戊辰戦争)が起こりました。

激しい戦乱の中、信濃川が氾濫します。洪水と戦争という2つのダメージが重なり、人々はひどく困窮しました。長善館の門下生「鷲尾政直」らは、大河津分水の建設を強く訴えます。ほどなくして大河津分水の建設が決定したのは、北越戊辰戦争での洪水を経験した新政府の要人たちが、建設の必要性を肌で感じていたのかもしれません。

明治3年(1870年)、ついに念願だった大河津分水の建設工事が始まります。しかし、外国人技師が「大河津分水ができると新潟港に影響を及ぼす」と報告したことなどにより、明治8年(1875年)工事は中止となってしいました。

「横田切れ」で動き出した大河津分水建設

工事が再開されるきっかけとなったのは、明治29年(1896年)に起きた「横田切れ」と呼ばれる大洪水でした。越後平野全域が水で覆われ、数カ月たっても水は引かず、チフスや赤痢などの伝染病で1,200人以上の人々が命を落とします。

明治30年、長善館の門下生であった高橋竹之介は、政府の有力者であった山縣有朋らに、大河津分水の必要性を説いた「北越治水策」を建白します。

山縣有朋は北越戊辰戦争の際、新政府軍として新潟県に入っていました。高橋竹之助も新政府側で参戦し、山縣らを先導しています。山縣と竹之助は戦後も交流があったとされています。

県会では小島太郎一らが毎年のように内務大臣に請願を行いました。帝国議会では、長善館門下生の大竹貫一や萩野左門、小柳卯三郎らが、越後の治水の必要性を訴えていました。

そして、明治40年(1907年)、再び工事が決定します。延べ1,000万人が従事したとされる東洋一の大工事は、大正11年(1922年)に通水。その功績を後世に伝えようと、田沢実入・山宮半四郎は私財を投じて、堤防上に桜を植樹しました。

大河津分水の完成により、越後平野は広大な美田に生まれ変わり、燕の金属加工産業も大きく発展することとなります。

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