長善館の門下生の活躍(門下生紹介)

更新日:2021年09月21日

長善館とは?

1833年(天保4年)、鈴木文臺(ぶんたい)によって粟生津村に創設された私塾です。「長善」とは「いいところを伸ばす」という意味で、「困った人を救うためために学ぶ」「学んだら実行することが重要」を学是としました。

文臺、惕軒、柿園、彦獄の4代の館主のもと、1912年(明治45年)までの約80年間にわたり、1,000人を超える塾生を輩出しました。

大漢和辞典の著者である諸橋轍次博士から「越北之鴻都」と称えられ、「西の松下村塾、東の長善館」と並び称されました。

大河津分水の建設のために尽力した門下生たち

信濃川洪水から人々の暮らしを守る大河津分水。大河津分水ができてから、越後平野は日本一の米どころとなり、交通、経済、産業も大きな発展を遂げました。大河津分水建設のために奔走した、長善館の門下生を紹介します。

高橋 竹之介

高橋竹之介

長岡市中之島生まれ。

庄屋の次男として生まれ、20歳のときに長善館に入る。勤王組織「方義隊(後の居之隊)」を創設。北越戦争(戊辰戦争)では、山県有朋、西園寺公望らが指揮する新政府軍に加わり功績を立てます。その後に長岡で開いた「誠意塾」では、長善館の門下生でもある大竹寛一が学んでいます。横田切れの翌年には、大河津分水の必要性を説いた「北越治水策」を、山県有朋らに建白しました。

鷲尾 政直

鷲尾政直

新潟市黒鳥生まれ。

大河津分水の重要性を提唱しながら、用弁係として一次工事にも従事しました。その後、民部省で全国の土木工事に関わります。門下生たちと信濃川治水会社を作り治水運動を進めました。鷲尾が主導した治水工事で代表的なものの1つが中ノ口川左岸堤防です。

大竹 貫一

大竹貫一

長岡市中之島生まれ。

庄屋の6男として生まれる。実家の大竹家は歴代治水に精力を注いでいました。「横田切れ」の発生後は、国会で政府高官に対し、人々の窮状と大河津分水建設の必要性を説きました。通算16期、34年にわたり衆議院議員を務めました。

萩野 左門

萩野左門

新潟市黒埼出身。

29歳の若さで県議に当選。1894年、44歳で衆議院議員となり、15年務めました。大河津分水工事の起工や新潟市の新川の開削に貢献しました。

小柳 卯三郎

小柳卯三郎

新潟市中之口出身。

県議3期、衆議院議員も3期務めました。「横田切れ」以降は、同じく長善館の門下生である萩野左門らと上京し、政府の要人たちに建設を要望しました。