【開催終了】六張煙管 工房見学会(12月9日)

更新日:2024年02月28日

本イベントは開催終了しました。

開催レポートはこちら!

 

市外・県外の皆さんから燕市の魅力を知っていただくための体験プログラム、第2弾を開催します!

今回のテーマは「煙管(キセル)」です。

かつて日本一の煙管の産地であった燕市。この地に移住した若き煙管職人・岩浪 陸(いわなみ りく)氏の工房「六張煙管(ろくばりきせる)」を訪ねます。

製造現場の見学や職人との交流を通じて、煙管のもつ文化的豊かさや、ものづくりの魅力を体感できる企画となっております。

煙管を製造する職人が全国でも希少となった現在、製造現場を生で見られる貴重なチャンスですので、是非ご参加ください!

 

煙管を製作している岩浪陸氏

 

煙管(キセル)とは

煙管と煙草葉


江戸時代から続く「粋」の象徴

煙管は日本の伝統的な喫煙具で、その歴史は江戸時代から始まり400年以上になります。

先端の皿状の部分(火皿)に刻み煙草をつめて火をつけ、煙をゆっくり吸い込み、吐き出す。時代劇や浮世絵などでその姿をご存知の方も多いのではないでしょうか。

江戸時代から明治時代の男性にとって、煙管、煙管入れ、煙草入れの3点は唯一の装身具で、その人の個性を表すものだったと言われています。そのため、職人による創意工夫と高度な意匠を凝らした様々な煙管が作られ、日本独特の文化が形成されました。

同じ銘柄のタバコであっても煙管の材質や長さになどよって風味や口当たり、温度も変わることから、近年、こだわりをもって煙管を愛用する方も増えています。


煙管


日本一の煙管産地であった燕市

江戸時代初期、鉄を用いた和釘(わくぎ)生産から始まった燕のものづくり。

その後、元禄年間(1688〜1704年)より採掘が始まった間瀬銅山(まぜどうざん)から良質な銅が産出されたこと、そして江戸や会津などから製法が伝わったことにより、江戸時代中期には鑢(ヤスリ)、煙管、銅器といった製品が作られるようになりました。

なかでも煙管づくりは明治時代から職人が増加し、明治末期には年間65,000本の煙管を製造。さらに大正時代には金物プレス機の導入により量産体制が確立され、最盛期を迎える1930年代以降は1日に60,000本を生産するまでに。全国生産量の8割を占める、日本一の煙管産地となりました。

しかしその後、手軽な紙巻タバコの普及とともに煙管の需要は激減。煙管職人も年々減っていき、現在では、全国でも煙管の製造・販売を行う会社は燕市の「飯塚金属株式会社」1社のみとなりました。

 

六張煙管の紹介

 岩浪陸氏


若き煙管職人・岩浪 陸 氏が故郷の埼玉県から燕市に移住したのは、2021年9月のことでした。

大学在学時から煙管を愛用していた岩浪氏は、大学院修了後、趣味として独学での煙管製作を開始します。

製作のための道具はインターネットで購入し、作り方も動画サイトYou Tubeで学習。製作を始めて3~4カ月でインターネット上で製品を販売し、愛好家から評判を呼ぶようになります。

「六張煙管」という屋号は、自身の名前「六(陸)」と、煙管を作ることを意味する「張る」を掛け合わせ、「六(陸)が作る(張る)煙管」という意味合いでつけられました。
 

煙管を持つ岩浪陸氏


あるとき、燕市の伝統工芸・鎚起銅器の老舗「玉川堂」の山田立氏と出会った岩浪氏は、「煙管の産地である燕市で挑戦する気はないか」と誘われます。

燕市に移住後、煙管界のレジェンドである「飯塚金属株式会社」の飯塚昇氏や、金工の職人たちと交流する中で新たな技術や知識を習得し、これまで以上にバリエーション豊かな煙管製作に励んでいます。

岩浪氏の活躍はNHK移住ドキュメント「いいいじゅー!!」をはじめ、各種メディアで取り上げられ、煙管文化の認知向上に貢献しています。
 

 

「六張煙管 工房見学会」の内容

  • 煙管の製造工程の見学
  • 煙管の基礎知識、歴史、魅力の解説
  • 昼食(懇親会)

(参加者にはプチプレゼントをご用意)

煙管と煙草葉

煙管

煙管

 

これまでの体験プログラム

体験プログラム第1弾の開催レポートはこちら!
梨収穫体験

 

この記事に関するお問い合わせ先

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新潟県燕市吉田西太田1934番地

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