金属と向き合って400年

更新日:2021年04月09日

人間国宝・玉川宣夫

燕のものづくりの歴史は今から400年前。

江戸時代に農家が副業として始めた和釘づくりがそのルーツです。

それから現代まで、時代の変遷に合わせながら、常に人々から必要とされるモノを作り続けてきました。

長い歴史にはぐくまれた技術の継承と革新が燕にはあります。

燕のものづくり。400年の歩み。

燕における金属加工産業は、江戸時代初期、信濃川の氾濫に苦しむ農民の副業として始まった和釘づくりに起因すると言われています。

度重なる地震や大火によって江戸での需要が増加し、明治初期まで、燕産業の80%は和釘の生産で占められていました。

1700年代、鎚起銅器やキセル作りの技法が外から伝えられ、新たな産業として発展します。燕市のすぐ近くにある間瀬銅山から良質な銅が採れたことも発展を後押ししました。

同じころ、自家用ノコギリの目立て道具としてヤスリの製造も始まります。

ヤスリとキセルは明治末期から大正のころに機械化され、大量生産に成功。1930年代以降に最盛期を迎え、ヤスリは年間4千万本、キセルは日産6万本を数えたとの記録が残っています。

しかしながら、明治維新以降、西欧文化が少しずつ広まっていくことにより、燕の金属加工産業は厳しい局面に立たされることとなります。和釘は洋釘に、キセルは紙巻きたばこに取って代わられていくのです。

そんなころ、長く続く戦争を契機に、諸外国から洋食器(スプーンやフォークなど)の供給が日本に求められ、その試作注文が燕に持ち込まれました。

これまで長い間養ってきた高度な金属加工技術をもとに、燕は金属洋食器の大量生産に成功。輸出によって外貨を稼ぐという活路を見いだします。

第二次世界大戦後、欧米での需要はさらに拡大していきます。

日本人の生活様式も徐々に欧米化していき、ステンレス加工技術が発達したことなどから、金属ハウスウェア(鍋やフライパンなど)産業が誕生しました。

1950年代、洋食器業界が諸外国からの輸入制限で苦しむ中、金属ハウスウェア業界は加速的に伸び、多様化時代に対応しながら、市場を国内外に求めて発展していきます。

その後も、1973年のオイルショック、1985年のプラザ合意など、燕の金属加工産業の根幹を揺るがす大きな試練が数多く訪れましたが、常に逆境を跳ね返し、不死鳥(フェニックス)のごとく甦ってきました。

和くぎ

キセル

ヤスリ

鎚起銅器

手づくりスプーン、フォーク

木目金花瓶

燕市産業史料館で、燕のものづくりの歴史を学ぼう!

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